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花菖蒲と花菖蒲園 

5月5日 きょうは、花菖蒲と花菖蒲園って、いったい何? ということについて、改めて書いてみます。


前回の記事で 花菖蒲は、この端午の節句の菖蒲の文化が土台となって、江戸時代に開花した日本の園芸文化であると言えます。 と書きました。確かにこのことが、この花菖蒲という園芸植物の起こりだと思います。

ですが、その植物を一ヶ所にたくさん植えて、「花菖蒲園」としているのはなぜでしょうか。

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堀切菖蒲花盛図 東京都葛飾区郷土と天文の博物館蔵

「花菖蒲園」という花菖蒲の鑑賞方法は、江戸時代の後期の天保年間に、江戸近郊の、葛西領堀切(現 東京都葛飾区堀切)で起こりました。

この堀切という場所は、江戸時代、江戸に向けて切り花を生産していた場所でした。端午の節句の花であった花菖蒲も、切り花として栽培されていました。そうしたところ、花がいっせいに咲きその見事さから、切り花としてではなく、花を見せる観光園という形が考え出されました。

この堀切というところは、江戸からちょうど徒歩で日帰り程度で行くことができ、田園地帯で景色も良かったので、観光花菖蒲園は江戸っ子の行楽地として人気となり、それ以降、明治、大正頃まで隆盛を見せました。

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肥後熊本で明治時代に改良された花菖蒲 石 橋(しゃっきょう)

しかし堀切の花菖蒲園は、その後の関東大震災後の堀切地区の宅地化によって衰退してゆきます。しかし大正末期頃から、九州の熊本でそれまで改良されてきた肥後花菖蒲が関東に紹介され、広く一般に普及し始めました。

肥後花菖蒲は大輪で気品高く、多くの人々がこの花に心酔し、昭和6年には花菖蒲の愛好団体「日本花菖蒲協会」も生まれました。そしてこの肥後花菖蒲の普及こそが、戦後の花菖蒲園の隆盛に繋がりました。

戦後の混乱期を経て昭和31年の東京花菖蒲苑(その後の京王百花苑)の開園を機に、その後の戦後の高度経済成長時代のなかで花菖蒲はまさに時代の花としてたいへんなブームとなりました。平尾秀一氏や光田義男氏など、素晴らしい花を作出した育種家も生まれ、また同時代に開園した当加茂花菖蒲園も、それら育種家の品種を大量に増殖し各地の花菖蒲園へ普及させたことから、昭和後期までに全国に200箇所もの花菖蒲園が造成、運営されるようになります。

そして、それらの花菖蒲園が、今日まで運営され、6月には花を咲かせ続けているというわけです。

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昭和55(1980)年の当園の通販カタログ。当園はこの年より花菖蒲の通信販売を始めました。写真を見ると肥後系の品種が圧倒的に多く、色彩のバラエティーは現代よりも少ないこの時代の花菖蒲園らしいです。また花菖蒲園の面積も、現在より規模が大きなものでした。


ですが実際には、この花菖蒲という植物は栽培がなかなか難しく、多くの花菖蒲園がその栽培に苦慮されておられます。また現代では当に、花菖蒲は時代の花でもなくなりました。

それでも今のこの不況の時代に、他に楽しみなどいくらでもある時代に、全国各地の花菖蒲園が閉園に追い込まれることなく、何とか命脈を保っているのは、改めて考えてみると脅威であると言えそうです。昭和6年に創立した日本花菖蒲協会にしても、今年で創立80周年を迎えますが、一介の趣味団体が80年も命脈を保つなど、なかなか考えられない事です。

当園にしても、花菖蒲園ではとうに採算が取れないことをもう20年も前に見越して、富士にベゴニア園を造り、その後の花鳥園経営の大成功の今日に至っても、花菖蒲園を止めずに毎年花を咲かせ続けています。 

これはなぜでしょうか?

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そう考えると、やはりこの花には、私たち日本人の心に響くものがあって、時代は変っても決して失ってはいけないものに、すでになっているのだろうと、改めて思います。

江戸時代から連綿と、日本人の心が育んできた花ですから。今の時代の人の心にも響くものがあるのだと思います。


そして、もうすぐ、この花の咲く季節がやってきます。


今回は長く書きすぎました。すみません。次回からは、当園のほかの部分の紹介を、開園が始まる5月の22日まで、ゆっくりとご紹介してゆくことに致します。


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